2004/11/08

ライオンズとわたし

西武ライオンズが埼玉に来たのは、たしか高校生の頃だ。

野村だとか田淵だとか、昔の名前で出ていますみたいな選手を集めて(田淵はその後もうひとはな咲かせるのだけれど)、なんとかやっていたという印象が強かった。
当初はやたらと弱くて、たしか開幕からの連敗は記録を作ったのではあるまいか。

「がんばれタブチくん」が一世を風靡した頃だった。
それでもテレビ埼玉が律儀に試合を中継していたのを憶えている。

・・・・・・・・・・・・

突然だが私はセゾンカードをもっている。
大学の時に頼まれて作ったのだ。
なぜかというに、当時の西武百貨店は、就職活動の会社訪問の段階で、セゾンカード入会者を何人集めてもっていけるかというのが、その後にすすめるかどうかの分かれ目だったらしくて、まぁ先輩の就活に協力したわけなのである。
あの頃のセゾンは、日の出の勢いで流行の先端を行く企業だったから、希望者も多かったのだろうけれど、なんだかその話を聞いてひどく幻滅したのであった。

おかげで、ライオンズのことも嫌いになった。
セゾングループと、西武鉄道グループが、じつはトップも別々のあんまり仲のよくない関係だということを知ったのは、もっと後のことで、ライオンズに罪はないのだけれど、とにかく嫌いになった。

・・・・・・・・・・・・

西武球場には一度だけ行ったことがある。
まだドームになる前で、なんだかのんびりした雰囲気だった。
対戦相手も、勝敗も、誰と何で行ったのかも忘れてしまったけれど(たしか伊東がホームラン打ったっけな)、あの時も、ライオンズの相手の方を応援していたのだった。

さらにその頃にはライオンズはとても強くなっていて、日本シリーズにも何度も出てきたのだけれど、結局一度も応援することはなかった。

・・・・・・・・・・・・

で、そのライオンズが売りに出されるのだという。地元にありながら全然愛着がなかったチームなので、どうでもいいといえばどうでもいい。
でもなぁ、私個人のことは別にしても、ドラゴンズやカープ、ホークス、そしてタイガース、そういうチームと違って、地元の声援がライオンズにおくられなかったのはなぜだろう?

今年の全国制覇にいたるまで、埼玉県民が、西武の安売りに群がることがあっても、どっかの川に飛びこんだとか、何千人も集ったとか、そういう話を聞いたことがない。

強くたってダメなものはダメなんだよねぇ。
なんか姿勢の問題なんだろうか。

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2004/09/03

新学期事件

知らないうちに9月だ。
教員だった頃は新学期が始まるので、いやでもその到来を意識させられたのものだ。

8月31日と9月1日では天と地の差があったものだが、急に涼しくなるわけでもなし、本当は同じようなものなのだ。

さて、でも夏休みの終わりは9月1日と心に刻み込まれていたけれど、冬休みと春休みについては、何となく曖昧だった。
正月中「あれっ休みっていつまでだったろう」となどと不安になって、予定表を確認することが、時々あったような気がする。

で、この時期になると1人の生徒のことを思い出す。

3学期の始業式の日のことだ。
だいたい学期初日は、式のあと通知表を回収して終わりになるのだが、文化部としてはまれに見る熱心さだったわが美術部は、当然部活を行った。
美術室に集まったメンバーたち、なかには休み中あまり顔を見せなかった奴もいて、顧問としてはちょっと気合いを入れてやろうなどと思うわけである。

というわけで、集合したメンバーを見渡すと、いつも熱心で、休みの間も皆勤していたHの姿がない。

「あいつはどうしたんだ? 」と聞くと、同じクラスの部員が、「今日は休みでした」という。
「そうか、風邪でもひいたかな。・・・じゃ、今学期の予定についてだなぁ」などと話出したときだった。

「先生。Hが来ます」
確かに校門を入ってくる彼の姿が見える。
美術室は一階にあり、外側から直接入れるので、彼は休み中同様、まっすぐに美術室にやってきた。

H   「あっおはようございます」
わたし 「おぅ、今日はどうした?」
「どうしたって・・・?」
「午前中休んだんだろ」
「えっ・・・」
「体調悪かったのか? 部活だけ出ようなんていい根性だ」
「いや」
「ちがうのか・・・」

彼は始業式の日程を忘れていたのだ。
そして、いつものとおり、部活をやるために、午後から登校してきたのだった。

「なんだか、いつもと違って人がいっぱいいるなと思ったんですが・・」

始業式後、どっと家路に向かう生徒達に、逆行するように校門に入ってきた彼は、それでもわたしにいわれるまで、ことに気付かなかったという。

とぼけたやつだったなぁ。今どうしているんだろうか。

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2004/07/24

そいつは突然降りてくる2

その次にやつがわたしに降りたのは、とある秋の日であった。

今回のレシピはコロッケ。
そんなもの駅前の肉屋でいくらでも売っているというのに、どうしてもじゃがいもの皮剥きからはじめてみたくなったのだ。
そう、あの至福の揚げ立てコロッケを、なんとしてもものにしたい。
おお、作ってやろうじゃないの。

牛肉コロッケもカレーコロッケも好きだけど、神の啓示はシンプルなポテトコロッケ。
さっそく調理に入ったのである。

茹で上がったじゃがいもをしゃもじでつぶすと、冷めきらないうちに猛然と手を突っ込み、やけどしそうになりながら、形を作る。
(マジで熱いぞ、コラ!)

つづいて粉、卵、パン粉の順に格闘。
(なんだって手に衣がついているんだろう)

そして油へ投入。

心地よい音とともに、揚がるわ揚がるわ、その数10個。
買ってきたイモを袋ごと全部茹でたからなぁ。
ただ一枚もっていた大皿に、マンガのごとく、うずたかく積まれたコロッケは、まさに壮観である。

生まれて初めての揚げ物は、黄金色の輝きをたたえ、じつにうまそうだ。
この前のチキンドリアといい、やつは結構やるんじゃないか?
小学校以来包丁をにぎらなかった男が、超自然の力なくして、ここまでできるわけがあるまい。
我が身に訪れた奇跡に、少々おののきながらも、わたしは、深い満足感にひたったのであった。

・・・・・・・・・・・・

恍惚の時は過ぎた。
それではさっそく試食をと、かぶりつくと、
ん、・・・・・・・。

あれ・・・?
うまくないのである。

なんだ、なんか違うぞ、こんなにさっくり揚がっているのに。

・・・・・・・・・・・・

コロッケというのは、塩コショウで味付けするものだと気づいたのは、
料理の神様が、わたしから抜け出して、はるか彼方に去った後であった。

おーいコラ、最後まで責任とれよぉ。

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2004/07/23

そいつは突然降りてくる

それが初めてわたしに降りたのは、就職してまもなく、一人暮らしをはじめたおんぼろ長屋。
爽やかな日曜の朝、目覚めるとわたしは唐突に思った。
そう、今日は料理をしようと。

その時、なぜだか解らないが、頭の中に突如としてチキンドリアのレシピが浮かび、ぜひともそれを作らねばならぬという、使命感が湧いてきた。
そして何かに突き動かされるように、買い物に出たのである。

スーパーに飛び込むと、最初に買ったのはグラタン皿。
ドリアを作ろうというのに、わたしはそれすらもっていなかった。

牛乳、小麦粉、ハムにピーマン、トマトケチャップ。
材料が揃うと、わたしはほとんど直感で、今まで作ったことのない、いや、生まれてこのかたファミリーレストラン以外では、見たことすらない料理を、猛然と作りはじめた。
それは、わたしの手を借りて、なにか別の人格が料理するかのごとくであった。
その時、明らかに、わたしには奴が乗り移っていた。

家を出るにあたって、唯一母が持たせてくれた中古の電子レンジ。
こいつが「チン!」と鳴った時に、ようやく我に返って、改めて今作った料理をながめてみると・・・。

うまそうなのである。

もちろん、すぐに食べてみる。
うまいのである。

なぜだか2人分作ってある。
ちょっとむなしいのである。

けれどうまいのである。

それこそがその後、何度となくくり返される、わたしと、料理の神様との邂逅の、最初の瞬間であった。
(続く)

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2004/07/02

選挙戦ノスタルジー

選挙ですねぇ。
でも、なんかさびしい。

そう、わたしの子供の頃に脳裏に刷り込まれた、あの熱狂的な選挙運動、現在の台湾あたりの選挙戦も真っ青の、狂乱の2週間。
あれに比べると、最近は全然盛り上がりませんな。

小学生の時だから、30年はたっているのだけど、実際あの頃の選挙は熱かったのですよ。

まずはポスター。

どこにいくら貼ってもOKだったので、町の風景変わりましたもん。
とくに市議選なんか、地区限定だから、物凄い枚数が局所投入されて、小学生ながらに、全立候補者の顔と名前が一致するほど。

このあいだ、候補者の顔写真に、画鋲を刺して(鼻のところだ) 逮捕されてしまった人がいたけれど、そんなことは日常茶飯事。
警察もポスタ−の数が多いから、全然目が行き届かなかったんだろうな。
わたしはドサクサにまぎれて、手描きの自分のポスターをはっていた、同級生を知っています。

選挙カーは朝も早くから夜遅くまで、目一杯大音量で、連呼連呼連呼。

われわれ子供達は、走ってきた選挙カーには全て手を振って、「御声援ありがとうございます」っていわれるのが楽しみでした。

何だか知らないけど、車は途切れなくやってきましたねぇ。
立候補者も今より多かったんじゃないのかな。

夜になると、親父はビール片手に選挙速報。
何やらしきりと、ひとり解説をやっていて、勝った負けたと、ほとんど勝負事の世界でした。
あの時の親父、楽しそうだったなぁ。

まぁ、小学生すら政治を語っていた熱い時代だったのです。
あの狂乱がいいとは思わないけど、とにかくわたしの中の本当の選挙は、お祭りなんですよ。

というわけで、みんな投票にいけよぉ。

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2004/06/21

台風事件

台風ですねぇ。

思考回路がこどもなので、大雪とか、カミナリとか、台風なんか、けっこう好きです。
ちょっとどきどきわくわくするわけですよ。

それはそうと、台風が来ると思い出すのは、高校時代のこと。
秋、10月くらいでしたか、ものすごくでかい台風がやってきたのです。

で、翌日、台風一過の青空の下、登校してみると、途中、学校のまわりの木がばたばた倒れているではありませんか。
これはすごいことになってるぞと、これまたわくわくしながら学校にたどり着くと、なんと体育館の屋根がめくれ上がっているのです。

なんというか、いまでもありありと覚えていますが、めくれ上がるという表現がぴったりの、ものすごい惨状でした。

おおっ。
わたしは小走りで部室へ。
部室は、学校にただ一棟残った木造校舎で、まさにその体育館の真横に建っていたのです。

案の定、ここも物凄いことになっていて、呆然と立ち尽くすわたし。

体育館から3寸角もある材木が飛んできて、窓を破り、室内に突き刺さっておりました。
瓦が吹っ飛び、大量の雨水が、屋根裏に流れ込んだため、天井が重さに耐えきれず落下したところが、数カ所。
雨水を吸った天幕が、石膏像にからみつき、大変シュールな風景です。

いやー、今思い出しても、すごかったなぁ。

・・・・・・・・・・・・

その日の体育の授業は、竹ボウキをわたされて、学校周辺のお掃除。
僕ら美術部は、文化祭のために作った校門のアーチがつぶれてしまったので、公欠とって修理しましたとさ。

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2004/05/24

白亜堂とマム(その6)

そんなことがあって、ほんの1週間かそこら後に、思いがけないことが、もうひとつおこります。

ある日、わたしのもっているホームページを通して、1通のメールがやってきたのです。
差出人は母校の放送部に所属する学生でした。

彼女達が「マム屋さん」の番組を制作していること。
その過程で、飾ってある油絵に興味をもったこと。
ネットで検索して、私のところにたどり着いたこと。

そんなことが、多少たどたどしくも、丁寧な文章で説明してありました。
そして、できれば一度話を聞かせてくれと、そう結んでありました。

そういえば、昔から放送部は活発にやっていて、しょっちゅう表彰なんかされていましたっけ。どうやらいまだ伝統は健在のようです。

しかしまぁ、20年間も音沙汰なしだったものが、ここにきてつぎつぎと、いろいろなことがあるものです。

どうせひまなんだし、とくに断る理由もありません。ひとつ顔を出してみるか、わたしはそう決めたのです。

・・・・・・・・・・・・

気持ちよく晴れた土曜日。
母校はかわらずそこにたっていました。

ディテールをみれば、
見たことのない新しい校舎。驚くほど大きく育ったランドスケープツリー。
いろんなことが目につきます。
校門のあたりから見た風景は、何か違う学校のようです。

もちろん、過ぎた年月を考えれば、かわらないわけがないのですが、それでもちょっと寂しい気がします。

ところが一方の「マム」はといえば・・・、呆れるくらいそのままなのでした。

おばさんは少々年をとり、わたしの絵は、驚くほど退色していたけれど、あとは商品棚から、リノリューム張りの床まで、なんにもかわっていないのです。
いや、それどころか目立つところに、例のハートチップルさえ置いてある!。
一瞬ここは時間が止まっているのかと思ったほどです。

後輩達に促されて、私はカメラの前でポーズをとり、おばさんと、実は初めてしっかりとお話したのでした。

・・・・・・・・・・・・

けれど・・・。
冷静に考えれば、なにもかわっていないはずなのに、開店の頃あれほど小綺麗に見えた「マム」は、もう、どう見ても時代遅れの、ちょっと古臭い店になっていました。
そう、ちょうど「白亜堂」がそうだったように。

「マム」は去年開店25周年を迎えたそうです。

「市高とともに25年」、今となれば、それはこの店のキャッチフレーズでもあったのでしょう。
「マム」の店内の、サッカー部や野球部やその他諸々の寄せ書き。
この店の番組を作ろうという後輩達。
この店もまたずっと愛されてきたのです。

たぶんこれからも。
わたしは、少しだけ僕に戻っていました。
(了)

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2004/05/22

白亜堂とマム(その5)

僕はいい年の大人になりました。

その間のほとんどは高校の美術教師としてすごし、時間割りとチャイムにそって生きてきました。
入学式、遠足、試験、夏休み、合宿、文化祭・・・そして部活動。
気持ちの半分は高校生のままだったのかもしれません。

40歳目前に、ふと自分の作品をしばらく作っていないことに思い至り、いろいろ考えて勤めをやめました。

今は毎日、ただ作品をつくる生活をしています。
僕はもう、自分のことを僕とは呼びません。

・・・・・・・・・・・・

最近、制作にいきづまると、わたしはネット上をあちこち見てまわります。
この間、偶然覗いたページでこんな記述に出くわしました。

『(サッカーを見るために)北浦和から駒場まで歩く。ちょうど中間地点あたりにわたしが卒業した高校があるので、その前を通っていく』

ああ、この人は同窓生なのだ。
駒場スタジアムは、今でこそ全国区ですが、昔は、母校のマラソン大会のスタート地点に使っていたような、マイナーな陸上競技場だったのです。

そして
『マム屋(パン屋)は相変わらずあるなあ、とか、このあたりも地上げがあったのか、駐車場になっているところがあるなあ、とか思いながら歩く』と続きます・・。

「マム屋」かぁ。
わたしは全然知らないこの方のページにコメントを書くことにしました。

「マム屋」のひびきが懐かしかったこと。
そしてあの店に飾ってあった油絵は自分が描いたこと。

何も、絵のことまで書く必要もなかったのですが、たぶん同窓生なら、あの絵のことを知っているに違いないと、そんな自負があったのです。
仕事をやめてから、他人とつきあうことが少なかったので、そんなことをもちだしてでも、人と接したかったのかも知れません。

さて、ほどなく返事のコメントがあって、またそれにコメントをつけて・・何度かのやり取りの末、わかったことは、なんとこの方は、あの教育実習の時に、わたしと顔をあわせていた、美術部の後輩であったという事実でした。

驚きました。
そして、20年前にもらった部員名簿があるはずだと、昔の資料をひっくり返し、見つけだした茶色のわら半紙に、たしかに彼女の名前を発見しました。

「マム」に絵をおいてこなければ、こんな楽しい偶然が訪れることもなかったかなと、めずらしく気持ちが高揚した出来事。

わたしは長い時間をおいて、もう一度、あの頃を思い出すことになったのでした。

・・・・・・・・・・・・

ちょっとした余談。
見つけだした部員名簿。なぜだか、あちこちにはんこの押してあるのでした。
そういえば、20年前、先輩のカクタさん、後輩のタロウの実習生3人で、「どの子がかわいい?」「俺はあの子だ」と、出勤簿に押すはんこをぺたぺたやったんだっけ。

当の彼女の所にもしっかり押してあるので、さてどんなにかわいい子だったのかと一生懸命思い出そうとするのですか、どうにも顔が浮かびません。

一度お会いしたいものです。
(続く)

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2004/05/21

白亜堂とマム(その4)

僕が再び、市高の校門をくぐったのは、それから5年後。

この学校は僕にいろいろなことを与えてくれたけれど、幸か不幸か、将来の目的として美術以外の選択肢は与えてくれなかったようでした。
僕は、家族も友人も、そして僕自身も予測したように、そのころには美大の学生になっていたのです。

着なれないジャケットに、借り物のネクタイ、そう、6月の風物詩、教育実習です。
会議室には溢れかえるほどの実習生。
僕は浪人生活も経験していたので、そこに同学年の友人がいなかったかといえば、この学校の生徒は、みんな1年か2年は遅れて大学に入るので、知った顔ばかりなのでした。

・ ・・・・・・・・・・・

おどろいたことに、正門前に「白亜堂」がありませんでした。

閉店しているというレベルではなくて、あの寂しいベンチの置いてあった店先が、すっかりモルタルの壁に覆われて、店事体が存在していないのです。

ばあさんが、体調を崩したか、あるいは亡くなったのか。
ある日突然店が開かなくなったのか、それとも年度の終了を待って閉店したのか。
何かのお知らせがあったのか、生徒はどう反応したのか。

その最後がどんなふうだったのか、僕にはまったくわかりません。
100年前から存在して、100年後もそのままであるはずだったのに、
僕らの「白亜堂」は、30年目を迎えるか、迎えないかの頃に、その歴史を閉じていたのでした。

一方「マム」はといえば・・・。
今や市高の生徒のすべてを引き受け、ごくごく当たり前の存在になっているようでした。
そうそう、後輩の女の子達は「マム」を「マム屋さん」と呼ぶようになっていましたっけ。
初めて聞いた時はなんか奇異な感じだったけれど、たぶんもう永遠に「マム屋さん」なのだろうと、僕には変な確信がありました。

彼女達はきっと、この学校のパン屋さんは、ずっと昔から、そして未来永劫「マム屋さん」だと思っているのです。

・ ・・・・・・・・・・・

さて、問題は目の前の教育実習。

美術部の先輩やら後輩だのが、美術はもちろん数学や家庭科の実習に、あわせて5人もきていました。
毎日がにぎやかな同窓会状態です。
当然、放課後は部室にたむろして、気持ちはすっかり高校生に戻っていたのですが、そうはいっても、とりあえず授業だけはやらなくてはなりません。

驚いたことに、恩師は初日から出張に出ていって、最初の授業など、僕は紹介されるでもなく、いきなり「あ、どうも、実習生です」などとおずおず出ていったものでした。

研究授業のテーマは「どうしたら上手く描けるか」という、今から思えば赤面ものの、正攻法。
そんなものわかってたら、誰も苦労しないのだけれど、とりあえず大真面目なのでした。

・・・・・・・・・・・・

面倒な問題や、教師の悩みなどには、まったく関わらなくてもいいバーチャル体験。若いというだけで、無条件に迎え入れてくれた生徒達。
楽しい2週間はあっという間に過ぎました。

そして、それっきり僕はここに来ることがありませんでした。
(続く)

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2004/05/19

白亜堂とマム(その3)

僕らの三年の時の担任は、体育の教師だったのだけれど、いっぷう変わっていて、体育系には珍しく言葉の力を信じている人でした。

彼はよく話し、又、僕らにも話させたものです。

いや実際、帰りのSHRの時に、順番に生徒を指名して、「何か話せ」というのです。
「何でもいい、最近の出来事とか、気になったこととか、とにかく話すこと」
まぁ強引といえば強引ですが、結構僕らも楽しんでおりました。

夏にサイクリングにいったやつが、人気のない山道で日がくれて、やっとのことで何かの飯場にたどり着いて、泊めてもらったという話。

水産学部が志望の男の、飼っているカニが孵化したというだけの、それでも感動的な話。

下手な授業よりよく覚えております。

僕の順番もほどなくまわってきて、こんな話をしたものです。

「えーと、美術部なんで、絵を描くんです。・・この間、っていうか春休みに、あの、マムを描いたんですね」

「で、描いていたら、マムのおばさんが出てきていうんですよ、譲って下さいって」
「譲るったってただじゃないぞって思ったんだけど、まぁ、そんな強欲なことをいっても仕方ないんで、あげることにしたんです」

「そんなわけで、この前、絵を持っていったのですよ、マムへ」
「そしたら、おばさん本気で買う気だったらしくて、おいくらですかって聞くんですよ」

「俺、舞い上がっちゃって、結構ですって置いて逃げてきたわけ」

「それからなんか、気まずくて、しばらくマムにいけなかったんだけど、この間ひさしぶりにいったら、おばさんちゃんと覚えていてなんだか紙袋をくれるんですよね」
「で、これもしかして現金入ってるのかなと思って、どきどきしちゃって」

「部室に持って帰って、恐る恐る開けたら、ハートチップルが入ってるんですよ」

・・・・・・・・・・・・

ハートチップルというのは、なぜか当時、僕らの学校で一世を風靡したスナック菓子の名前で、要は、僕の初めて買い手のついた作品は、100円そこそこの駄菓子との物々交換だったという、そういう情けない話。

スピーチはまあまあウケて、おかげで僕は、普段付き合いのない女子からも「美術部のタグチくん」として認知されたようでした。
一方、件の絵は、「マム」の冷蔵ケースの上に鎮座したのです。

だからといって僕らの日常に何の変化もありませんでしたが、とにかくそんなことがあって、僕の高校時代は終わったのでした。
(続く)

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2004/05/18

白亜堂とマム(その2)

校門を出て、左側の角に新しいお店ができたのは、僕らが二年生になる頃だったでしょうか。

「白亜堂」との距離わずかに100m。
すべてがきれいで、明るいお店。名前さえ、あか抜けて「マム」。
口の悪い先輩は、生徒会誌の記事に「見た目の美味しいお店」と書いたものです。

実際おいてある商品なんて、どちらも大して変わらなかったにもかかわらず、女子生徒はこぞって「マム」に行きはじめました。

そうさ、女の子はいつの時代もきれいなものが好きなんだと、今ならそんなありきたりな感想をもらすのでしょうが、あの頃の僕は何か割り切れないものも感じていたのです。
いくら何でもそんなに簡単に寝返るなよ。ばあさん立つ瀬がないじゃないかって・・。

男の子はいつの時代も頑固なのだと、今なら思うのですが。

そんなわけで、僕はできるだけ「白亜堂」に通っていたけれど、結局、高校生の義理立てなんてのはたかが知れていました。

平日は弁当持参だった僕にとって、昼食を買いに出ることが多かったのは、部活にでてきた日曜日。
なのにあろうことか、当の「白亜堂」が日曜休みではどうしようもありません。
しばしば宗旨変えして「マム」に行くうちに、なんだかどうでもよくなってしまったのでした。

「マム」のおばさんは気さくな人で、店の雰囲気も悪くなく、さらに空腹に抗ってまで貫くこだわりではなかったのだから、まぁ当然の成り行きといえましょう。

文化祭恒例の「大のど自慢」で、毎度ウケねらいで参加する空手部が「マム」を茶化します。
ダークダックスの発声練習よろしく、4人並んだ男が端から音程を変えながら、
「マム−」
「マム−」
「マム−」
「マム−ゥ」

観客には、そのあとの「時には娼婦のように」の方が受けていたけれど、とにかく、そうして僕らの日常に「マム」は認知されていきました。

・ ・・・・・・・・・・・

文化祭では例の「白亜堂」の絵が並べられました。
見に来た友人はみんな、絵の善し悪しなんぞわからないけれど、何が描いてあるかはわかったようです。
「白亜堂じゃん」

そしてにやにやしながら付け加えます。
「マムの絵はないの?」

今よりはるかに生真面目だった僕は、そうか、マムも描かなきゃ、バランスを欠くなと、そんなことを考えていました。
(続く)

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2004/05/17

白亜堂とマム(その1)

中学校でも高校でも、ちょっと古くからやっているところには、たいがいどこにも、そう、表の角をちょっと曲がったあたりに、安いパンだの駄菓子だの、あるいは埃をかぶった文房具なんかを、細々売っている店があるものですよね。

そうして多くの場合、その店は小さくて、ちょっと雑然としていて、ほとんど客は生徒ばかり。あなたも、先輩も、その又先輩も昼休みにちょいと抜け出しては、買い物したり、見つかって怒られたり・・。

ねっ、あなたの学校にもあったでしょ?

で、僕らの高校の正門前にあったのが「白亜堂」。
薄暗くて、狭くて、古めかしい店です。

そこには、少々耳の遠いばあさんが、一人で店番をしていて、その、店の風情とあまりにしっくり調和した姿に、あれはきっと100年も前から、変わらずにばあさんだったに違いないと、僕らはそう思っておりました。

実際は「市高とともに25年」というのが、その店のキャッチフレーズで、100年にはずいぶん足りなかったのだけれど、高校生の僕らには、いずれにせよ自分の生まれる遥か前の話で、それはもう100年と何らかわりはなかったのです。

余談ですが、誰が考えたかわからないそのキャッチフレーズは、文化祭のパンフの広告にそえられるや、ちょっとした流行となり、それは駄洒落好きな国語教師が、授業中にネタにして珍しく大ウケしたくらいだったのですが、要はそれほど「白亜堂」は、僕らの日常であり、愛されてもいたということの、明らかな証明であったということでしょう。

そうそう、予餞会の舞台で、生徒会長が披露した、ばあさんのモノマネは絶品でしたっけ。
「おばちゃん、カレーパンちょうだい」
「えっ」
「おばちゃん、カレーパン」
「きょうはカツパンないよ」
「カツパンじゃなくてカレーパンだよ」
「えっ」
「カ・レー・パ・ン」
「ああ。まだ蒸けてないよ」
「・・・おばちゃん、それカレーマンでしょ」

小道具まで用意して、一人で熱演した会長は、最後にこれがすべて実話なのだと付け加えることを忘れなかったのでした。

・ ・・・・・・・・・・・

美術部の僕は、ある夏の日に白亜堂の絵を描きました。

ばあさんが店の前のベンチに座って、つくりもののように動かない、そんな絵が描きたかったのですが、点景の人物を描くのは、未熟な僕にはちょっと荷が勝ち過ぎたようです。
何度も描いては消しをくり返して、とうとうあきらめて、誰もいない、寂しいベンチの絵を描きました。

本当は、ばあさんをその場に座らせて、モデルにしたかったのですが、耳の遠い彼女に、そのことを交渉する勇気は僕にはなかった。
今になってはちょっと心残りです。

不思議なもので、からっぽのベンチの方が夏の午後の静けさが出たのかも知れません。
「白亜堂」の絵はその年の市展に入選しました。

(続く)

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2004/04/14

伝説の先輩その後

まずは昨日書いた記事を読んでいただけるとうれしい。

要するに、わたしの高校時代の部活には、個性的な顧問によって、世代を越えて語り継がれる伝説の先輩方がいたという話なのだが、さっそく、それに対して母校の後輩からコメントをいただいた。(なにゆえわたしが、この7年も下の代の後輩と交流があるのかというと、詳細は彼女のブログを見ていただきたい。これはこれで一つ二つ記事がかけそうなネタなので、じっくりあたためて、そのうち書こうかな)

コメントを引用しますと

顧問の先生、伝説の先輩のお話、とてもおもしろかったです。部室の様子が目に浮かんできました。小川先生ではなかったんですね。小川先生は、絵に関しては厳しいけれど、とても穏やかな方でした。(中略) その先生ではなかったため、直接お会いしていない先輩方は知らないんです(後略)

えっそうなの、ていうか、わたしの教わったのも、その小川先生なのだよ。

どうも、当時の彼は年とともに加速度的に角がとれて、非常に穏やかになっていたらしい。
確かに当時教育実習にやってきた先輩が、「先生ずいぶん優しくなったね、おれたちなんか口も聞いてもらえなかった」なんていっていたから、年々変化していたのだろうけど、それにしてもキャラクター変えすぎだよ。

もう時効だから書いちゃうけど、当時、部長を張った人間としては、やがては自分もそんな伝説の先輩方の一員になって、たまには講評の最中に語ってもらって・・なんて、とっても恥ずかしい妄想を抱いたもので(ほんと恥ずかしいなぁ)、そんな急に方向転換していたとは、ちょっと肩すかしではあったのでした。

丸くなるのはいいけれど、ちゃんと伝統は語り継いでおいてくれよと、今さらながら思ったり・・・。

四半世紀近くを過ぎて、青春時代のトホホな自己顕示欲と思わぬところで対面して、赤面することしきりなわたしなのでした。

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2004/04/13

伝説の先輩

高校時代は美術部だった。(と、書きはじめて小学も中学も美術部だったことを思い出したけれど、まぁ気にするな)

日本の高等学校の美術部事情に鑑みて、なかなか珍しいことなんだけれども、母校の美術部は結構真面目で一生懸命な雰囲気。文化部のくせに朝練もあったし、合宿だってやっていた。レベルもそこそこ高かった。
理由はただひとつ。

顧問が恐かったのだ。

何が恐いって、細かいことはよく思い出せないんだけれど、痩身に眼光鋭く、部長だったわたしを、時々ふいに放送で呼び出しては、説教をくれていた。
こういっちゃ何だが、わたしは優等生だったのだ。絶対に叱られるようなことはしていない。
にもかかわらず、ずいぶんと怒られたし、絶対服従であった。

その後わたしも先生と呼ばれる立場になって、たまに美術教員の会議なんかで顔をあわせることもあったのだけれど、もちろん直立不動、ろくに会話もできなかったのである。(もう何年もお会いしてないけれど、今会っても一緒だろうなぁ)

で、この先生、部室でお茶を飲もうと出前を頼もうと、別に何もいわない方だったが、何故かトランプをやっていると烈火のごとく怒ったのである。

思えば「大貧民」全盛期で、当時の高校生は教室でもどこでも、暇さえあると輪になってやっていたわけだが、部員一同、先生のトランプ嫌いだけは知っていて、部室でのゲームだけはさけていた、というかとりあえず見つからないようにはしていた。

ある日いつものように部室の外を気にしながら、「しかしどうしてトランプにうるさいんですか?」と聞くと、先輩が教えてくれたことには、何年か前の先輩がやたらとトランプに凝ってろくに絵を描かず、とうとう先生の逆鱗に触れて、全員退部になったという事件があったのだそうだ。

なるほど、それでうちの部ではトランプは御禁制なのだ。わたしは妙に納得した。

というのも、この先生、過去とか現在とかお構いなしなのだ。講評をしていても、お前ヒライの姿勢を見習えとか、イワキはもっとがんばってたとかいいだすのだけれども、ヒライさんもイワキさんも、もう5年も10年も前の卒業生なのである。
何年か前のトランプ事件が尾を引いていても不思議ではない。

他にタマムシさんとかムシャさんとか、伝説の先輩は何人かいて、この人たちとはほとんど知り合い気分だったわけだが、今思えばおかしな話ではある。

一度なんかコマツバラのデッサンはすごかったという話になって、誰だそれはと思ったら、当の先生が芸大に通っていた時の先輩で、有名な小松原邦雄画伯だということが判明して、いくらなんでもそれはないだろうと脱力したものだ。(なんでも顔を正面にして描いたブルータスの石膏デッサンが絶品だったらしい)

というわけで、この先生にお世話になった美術部員は、時代が違っても共通の先輩をもっているのであった。


さて、時は流れ、わたしが教員を退職する直前のことである。職員室でとある国語の先生と話していて、偶然母校が一緒であることが判明した。
「なんだ、そうだったんですかぁ、困ったなぁ」
「何で困るんですか?」
「いや、僕もいちおう美術部だったから」
「ええっそうなんですか、じゃほんとに先輩なんですね」
「・・・・いや、トランプやっててクビになったんだけどね」

あんただったのか。

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2004/04/02

桜ミテオモイダス(弐)

高校2年になる直前の春休みに、わたしは例の学校の桜の木を描いたのでした。
そう、油絵を描くのが楽しくてしかたのなかった時期、あきれるくらい毎日写生に出ていましたっけ。

桜の下でイーゼルを立てていると、むこうから事務室のお偉いさんがやってきて、趣味なのでしょうね、カメラであちこち撮りはじめました。今なら勤務時間に何してるんだと、文句のひとつもいわれそうですが(昨今は公務員はいじめていいことになってますから・・)、まぁ当時はそんなぎすぎすした世の中ではなかったということですね。

ひとしきりあちこちをフレームにおさめた後、彼はわたしの後ろに立って一言。
「その絵を入れて桜を撮りたいんだけど、君どいてくれる?」
16才のわたしですら、ずいぶん失礼なおやじだと、どうせわたしの姿は邪魔ですよと、そう思ったくらいですから、あんまり丁寧な言い方ではなかったんでしょうね。(まっいいんだけれど、ろくな思い出じゃないなぁ)

さて、その時の絵は今どうしているのかといえば、オーストラリアにある(たぶん)のです。

当時母校にいた留学生のマイケル・J・クローリー君。
いつも駅前のゲーセンにたむろして、「カワイイコイナイカ」「ワタシハスケベガイジンネ」などとのたまっていた愉快な男でしたが、こいつが「タグゥチィ(彼はわたしをこう呼ぶのです)、オマエノエヲ、クレヨォ」とねだるのですよ。
それでまぁ、桜の絵なら日本っぽくていいだろうと、帰国祝いにあげてしまったのでした。

絵を渡した時、彼は異国の人らしくしっかりとこちらの目を見つめて(目の奥まで透けて見えそうな青い瞳でしたっけ)、抱きつかんばかりに顔を寄せ、そしてものすごく脱力するイントネーションで「タグゥチィ、オレハァ、ウレシイヨ」と言ったのでした。

ほんとにまだあるのかなあの絵。捨ててないだろうなマイク?

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2004/04/01

桜ミテオモイダス(壱)

べつに花見がしたいわけではない。桜前線も気にならない。森山直太朗にも感動しない。でもふと道端に咲きほこる桜を見ると、立ち止まってしまう。うーん日本人だねぇ。

思い起こせば高校時代。わたしの母校はちょっとした桜の名所だったのでした。
関東の桜は、だいたい春休み中に咲いて、新学期が始まる前に散ってしまうのですが、5、6年に一度くらいは春の訪れが遅く、学校が始まるまで花がもっていることがあります。

わたしが入学した年は、そんな開花の遅い年でした。
入学式の日まで満開の桜が咲き残り、桜吹雪ということばそのままに、花びらは雨雪のごとく降りそそいでおりました。
どこまでも青い空と、永遠に尽きることなく思えた花びら。思えば15才のわたしは、生まれて初めて桜というものに感動したのでした。(うーん、いつになく情緒的な文章だ)

桜が入学式の日に咲いているか?
それはその後の高校、大学時代、そして教員だつた15年間を通して、わたしの関心事でした。

何年かに一度だけ、桜の木の下の新入生を見ながら、あの日の自分を思い出す。すっかりリリカルなおやじなのです。・・・・(気持ち悪がるなよ、明日に続きます)

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