[時事・体罰論]
甲子園優勝校の暴力事件騒動。
久々に真面目に書いてみる気になった。
いつもは不真面目なのかという指摘は置いておいて、
やっぱりというか、この件についてコメントする人たち、とくに運動部の洗礼を受けて来た人たちは、運動部で殴る、けるなんてのは普通のことなんだから、という前提で、意見をいうケースが多いようだ。
まぁ確かに普通のことなんだろうし、今回の問題点はそんな暴力そのものよりも、事件の発覚のタイミングとか、別の強豪校が出場辞退に追い込まれている中での、高野連の対応とか、そもそも野球は教育の一環などと、大上段に構えていることから生じる矛盾とか、そういう高校野球のあり方に対して、疑問が投げかけられているのであろう。
ただ、そうだとしても、どうも文化部純粋培養の自分に理解できないのは、愛のムチならいいとか、信頼関係があればいいとかの、運動部的メンタリティーだ。
人は殴る時には相手が誰であれ、憎いのだから殴るのである。
たとえそれが一瞬のことであっても、激情にかられて怒っているから殴るのだろう。
わたしには、多くの運動部指導者が口にする「心で泣きながら殴ることもある。」などという物言いはまったく理解出来ない。
心で泣くほど冷静ならば、ふつうは殴らないはずではないか。クールに、それでも殴るという選択をしているならば、それはサディストだ。(それとも運動部出身者というのは、冷静に人が殴れるのか?)
もちろん、殴ってしまったあとに、殴られた方が自分が悪かったと思えば、そこに問題が生じることはないけれど、それはたまたまうまくいっただけで、信頼関係とはいわないだろう。(もっとも、僕はこの人にだったら信じているから殴られてもいい、という信頼関係があったとしたら、それは従属関係と同義だけれども。)
殴る前に、こいつは殴っても大丈夫、こいつは信頼関係が出来てないからダメ、なんていちいち考えているとしたら、それこそ寒々しい話ではないか。
まあしかし、殴られる側でも、それを容認する者が多いからこそ、(あるいは容認するように教育されるのかもしれないけれど)「愛のムチ」は存続するのだろう。けれども、すべてのものが容認するわけでもない。
暴力的体罰というものが、指導方法として、そういう不確かな技術であることを、指導者がどのくらい自覚しているのか、もちろん自覚しながら、それを是としている人も多いのだろうけれど、私は大いに疑問に思うのである。
では、そういうことをまったくなしにして、それでも甲子園に出られるのか、となると、これはわたしにはまったくわからない。
おそらく無理なんだろうということは予想がつくのだけれども、団体スポーツが、ある種の絶対的従属関係がなければ成り立たないとするならば、それを認めない一般社会との軋轢は無くなることがないのであろう。
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