2005/08/26

[時事・体罰論]

甲子園優勝校の暴力事件騒動。
久々に真面目に書いてみる気になった。

いつもは不真面目なのかという指摘は置いておいて、
やっぱりというか、この件についてコメントする人たち、とくに運動部の洗礼を受けて来た人たちは、運動部で殴る、けるなんてのは普通のことなんだから、という前提で、意見をいうケースが多いようだ。

まぁ確かに普通のことなんだろうし、今回の問題点はそんな暴力そのものよりも、事件の発覚のタイミングとか、別の強豪校が出場辞退に追い込まれている中での、高野連の対応とか、そもそも野球は教育の一環などと、大上段に構えていることから生じる矛盾とか、そういう高校野球のあり方に対して、疑問が投げかけられているのであろう。

ただ、そうだとしても、どうも文化部純粋培養の自分に理解できないのは、愛のムチならいいとか、信頼関係があればいいとかの、運動部的メンタリティーだ。

人は殴る時には相手が誰であれ、憎いのだから殴るのである。

たとえそれが一瞬のことであっても、激情にかられて怒っているから殴るのだろう。
わたしには、多くの運動部指導者が口にする「心で泣きながら殴ることもある。」などという物言いはまったく理解出来ない。
心で泣くほど冷静ならば、ふつうは殴らないはずではないか。クールに、それでも殴るという選択をしているならば、それはサディストだ。(それとも運動部出身者というのは、冷静に人が殴れるのか?)

もちろん、殴ってしまったあとに、殴られた方が自分が悪かったと思えば、そこに問題が生じることはないけれど、それはたまたまうまくいっただけで、信頼関係とはいわないだろう。(もっとも、僕はこの人にだったら信じているから殴られてもいい、という信頼関係があったとしたら、それは従属関係と同義だけれども。)
殴る前に、こいつは殴っても大丈夫、こいつは信頼関係が出来てないからダメ、なんていちいち考えているとしたら、それこそ寒々しい話ではないか。

まあしかし、殴られる側でも、それを容認する者が多いからこそ、(あるいは容認するように教育されるのかもしれないけれど)「愛のムチ」は存続するのだろう。けれども、すべてのものが容認するわけでもない。
暴力的体罰というものが、指導方法として、そういう不確かな技術であることを、指導者がどのくらい自覚しているのか、もちろん自覚しながら、それを是としている人も多いのだろうけれど、私は大いに疑問に思うのである。

では、そういうことをまったくなしにして、それでも甲子園に出られるのか、となると、これはわたしにはまったくわからない。
おそらく無理なんだろうということは予想がつくのだけれども、団体スポーツが、ある種の絶対的従属関係がなければ成り立たないとするならば、それを認めない一般社会との軋轢は無くなることがないのであろう。

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2005/01/29

教育問題(そもそもどうして欲しいのか)

なんだか、新しいカテゴリーまで立てて、高らかに宣言したわりには、ひと月も関係の記事を書いてなかったのでありました。気持ちを入れ替えて・・・。

・・・・・・・・・・・・

そもそも、私たちは学校に何を求めるのだろうか?
議論百出の教育問題も、元をただせば、この大前提をしっかりと議論していない、というか、共通認識がないことから発していることがじつに多い。

食堂で、ある者は味付けが濃いといい、ある者はあっさりしたものを出せという。
それぞれがメニューやレシピを提出する。
けれども、もともとが中華料理屋に入ったのか、イタリアンか、はたまた居酒屋なのか、そのあたりを誰もわかっていないのである。
フランス料理屋で老酒を出せといっても無理な話だろう。

で、学校である。
私たちは何をして欲しいのだろうか?

思いつくままに書いてみよう。
勉強ができるようにして欲しい。
集団生活がおくれるようにして欲しい。
正しい生活習慣を身につけさせて欲しい。
体力をつけて欲しい。
職業意識をつけさせたい。
自立心や創造性をつけて欲しい。
友人をつくって欲しい。
部活動にはげんで欲しい。
学校生活の思い出をたくさんつくって欲しい。
忍耐や根性をつけて欲しい。
善悪の判断ができるようにして欲しい。
・・・・・・・・・・・・・等々々々

いきなり結論を書くけれども、全部は無理だ。

それはそうだろう、自分は全部身につけましたという人もいるかも知れないけれども、普通に考えて、学校を出たものがみんな聖人君子になるのではないのだから、だいたいはどこかが抜け落ちているわけだ。
いや、それどころか、うちの子供には勉強はできる様にして欲しいが、部活なんてどうでもいい、とか、子供なんてほっておいて自由にすればいいんだといった意見もある。

まぁそれでも、全体の方向性というか、コンセンサスがとれていれば、いろいろある中で、勉強をする者、学校生活を楽しむ者と、それぞれの道をきわめればいい。
中華料理屋で海老チリを食べるかチャーハンを食べるかという話である。

けれども、どうもそのコンセンサスがとれない、
学校は中華料理屋かフランス料理屋か、今そのレベルの問題が問われている。

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2004/12/22

教育問題(前提として2)

誰でも学校のことは知っている。だから誰でも教育問題については一言ある。
結果議論百出になるのだと、前回は書いた。

でも本当にみんな学校を知っているのだろうか?

えっ、12年間ちゃんと通ったって?
だけどあなた何校通いましたか?
・・・・・・・小中高1校づつで合計3校・・・普通そんなもんだよねぇ。

そう、親が旅巡りの劇団でもしていない限り、転校するといってもたかが知れている。
私立から公立、公立から私立といった転校は、さらに少ない。
第一その学校に通ったのが、四半世紀前だったりする。

だけど学校って実は思われているほど同じではないし、時と場所、あるいは学年、クラスによっても千差万別なのだ。

当たり前だけれども、二十年前の教室、四十年前の教室と、今の学校はまるで違っている。
長く有能な教師であった人が、ふいに学級崩壊等の状況にさらされるのは、このことと無関係ではない。
また、同じ公立の小学校であっても、都市部でその多くが私立中学校を受験するような環境にある学校と、地方都市、あるいは農村部の学校では、けっして同じ学校運営はしていないのである。
当然、前者で求められるものが、後者でも歓迎されるとはいえないだろう。

そんなことわかっているよといいながら、多くの論客は、その事実をまったく無視している。

たとえば、ゆとり教育と学力向上が共存できる学校はたしかにある。あるけれども、現状ではほんのひとにぎりにすぎないことは理解されていない。
もっと卑近な例でいうならば、学校の状況によって、あるいは親によって、体罰が容認されたり否定されたりするわけだ。

つまり、あなたが正しいと思うのは、あなたの経験した世界でのことであり、さらにいうならば、あなたの生徒としての、あるいは保護者としての視点から語られているにすぎないのである(それを悪いとはいいませんよ)

ただ、実はこの問題は外交や経済とたいして変わらない、そうは簡単に答えのでない、難しいものだということを、まず確認すべきではないだろうか。
自分で経験しているからこそ、自信を持って意見できるのだけれども、時にそれはかえって目を曇らせることになる。
まずは経験をいったん取り去って、謙虚に現状をみてみることからしか、ことは始まらないように思うのだ。

教師が悪い。親が悪い。ネットが悪い。
そんなに単純なもんじゃないぜってことだ。

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2004/12/18

教育問題(前提として1)

さて、世間では右から左まで教育改革を唱えている。
しかしながらその内容は千差万別、

君が代を歌うな、歌わせろ。
授業は増やせ、減らすべきだ。
教師は忙しい、いや働いていない。
学力を上げろ、生きる力をつけろ、心の教育だ・・・・・etc
ベクトルの方向がいっこうに定まらないのである。

たとえば年金問題なら簡単だ、いずれ破綻が目に見えているのだから、負担を誰がどのくらい被るかの綱引きである。
年金をなくせとか、莫大な損失を補填してしまえという議論はでてこない。

はたまたイラク問題だったら、自衛隊を出すか出さないか、条件付きで出すかの3通りしかない。
イラクなんか無視しろとか、金で傭兵を雇ってそれを送り込めなんていうことにはならないだろう。

なのに、こと教育に関しては、こうも議論百出で、方向性が見えないのはなぜだろうか?

・・・・・・・・・・・・
結論からいって、それは「学校」の問題だからだと思う。

北朝鮮との外交は大切だろうけど、どうも難しそうだ。経済はよくなって欲しいが、具体策は学者さんか政治家が考えてくれないと困る。
でも学校のことだったら・・・。

そうなのである。日本国民のほぼ全員はかつて「学校」に通っていたのである。
そしてまた、その相当数が、現在自分の子供達を「学校」に通わせているのである。

ああ、中学の時の教師連中は、ひどいやつが多かった、ああいうのが学校を悪くしてるんだなとか、
私の頃は宿題なんかなかったのに、今の子供は忙しすぎるとか。
当然のことだけれど、人は自分の経験したことについては、自信を持って語ることができるのだ。
景気対策は語れなくとも、教育改革ならば、誰でも、ちょっとくらいは意見をいえるのである。

それだけこの問題が身近なことであり、重要な課題だということではあるのだが、しかしここにひとつ大きな落とし穴があることに、意外と多くのひとは気付いていないのではなかろうか?

それについてはまた次回

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2004/12/16

教育問題(なにを大仰な)

突然なんなのだが、地球環境やらテロリズム、振り込め詐欺に年金問題、今晩の献立から私の体重まで、世の中じつにいろいろな問題が山積しているわけだが、だいたいが解決しないままに、新たな問題ばかりが増えていく。
そういうことをひとつひとつ真面目に考えていると、もともとたいして多くない私の脳の許容量は、あっという間に限界を越えて、もうどうでもいいやと思ったりするのだ。

しかし、とりあえずひとつだけ悩んでみろといわれたら、私が一番真剣に考えているのは、かみさんの御機嫌とりをのぞけば、なんたって教育問題なのである。

「国家百年の計は教育にあり」なんてことばもあるくらいで、政治も経済も文化も犯罪も、教育がしっかりしていれば、いつかは何とかなるような気がするのだ。
だから、まぁこんなブログででも、一度は真正面から意見しなければなどと、勝手に思っていたのである。

ところが、かつて自分が教員をやっていたこともあって、いいたいことは山ほどあるにもかかわらず、いざ何か書こうとすると、どうにもうまく文章にできない。
あまりに問題が、というより私の問題意識が、広範かつ詳細であり(要するにごちゃごちゃでとりとめなく)、自分の中でもよくまとまっていないので、なにか考えると、あーでもないこーでもないと、脳内で葛藤が始まってしまうのだ。

この間、日本の学生の学力が下がっているというニュースがあって、またひとしきり、学校だの教育だのについて考えてみたのだけれど、やっぱり系統だった意見にはいたっていない。
これはとりあえず書きはじめてみないことには、永遠にまとまりそうにないだろう。

一気に書くには体力がないし、いつもサッカーだのバカ話だのを書いているのに、落差が大きすぎる気もするので、新しくカテゴリーを立てて、ときどき思い出したこ時に書いてみることにしょうと思う。

まぁ、あまり期待しないで、生暖かく見守って下さい。

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